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GOL思う 故にGOLあり

例えば健常者が健康である事の幸福を自覚する事無く享受し、

それを失った時に初めてその幸福に気づく様に、

当たり前の様にある日常を幸福と自覚し切れていなかった自分は、

怒号の様にうねりだした日常からの報復に、

あらゆる事からひたすら選択と決断を迫られ続け、

怯み、取り繕い、理由付けし、希望を見出し、あきらめ、受け入れる。

そんな選択と決断は能動的なものとは程遠く、

それと自覚との間には後悔が、

自覚と自覚の足りない自分との間には自責の念が、

それぞれそこに、すっぽりと嵌まり込む。


運命について考えてみた。

運命とは、ガードレールの様なものだと思う。

既に決められている絶対的な結果という説と、

自らが切り拓くものだという説とがあるが、

それらは極論すぎるのではないか。

運命は、自らが進むべき方向のみを提示し、

ひとまずそこから外れようとした時に、

強引に、あからさまに、露骨に、外れる事を許さない圧力をかけてくる。

その先にはまた幾つかの道があるわけだが、

とにかく今の道を途中で外れる事を許さない。

提示された進むべき方向から外れる事を許さない。

時にそれに抗ってみたところで、

結局はそのガードレールに弾かれる。

その先にある選択の余地と、

継続して拘束され提示され続ける、進むべき方向。

運命とは、そんなものなのだと思う。


そうして運命のせいにして、

受動的な選択と決断に折り合いをつける。

殻を破るには能動的な選択と決断しかないと思う。

ガードレールを飛び越えてみたところに、

どんな結果が待ち受けているのか。

今はそれを知りたいと思う。


そうしてせっかく下した決断が、またゼロに戻った。

また考え直しだ。


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